東北大学大学院 文学研究科 美学・西洋美術史研究室

研究室の歴史history

美学・西洋美術史研究室の歴史は古く、1907(明治40)年に東北帝国大学が誕生し、1923年(大正12)年には法文学部の創設とともに研究室の前身である美学講座が設置されています。初代教授に招聘されたのは、大正ロマンと思索する青年を端的にあらわした『三太郎日記』の著者としても有名な阿部次郎でした。西洋美術史では、1923(大正12)年2月1日付で、古代とルネサンス美術の研究で知られる児島喜久雄が本学の助教授となりました。以来、計8人の教授・助教授が研究と教育活動を行っています。

 

歴代教官

 

阿部次郎(1883-1959)

東大・明治40年卒。1923(大正12)年の美学講座創設に際して初代教授に招聘された。大塚教授の門下生で、仙台に就任するに先立って美学研究のためヨーロッパに留学を命ぜられ、1922(大正11)年5月に欧州に渡り、主にフランス、ドイツ、イタリア、イギリスで学んだ。翌年10月に帰国し、同月27日に本学講座の教授に任命され、美学講義がはじまった。

“von innen heraus”(内側から)という彼のモットーに端的にあらわされているように、阿部の美学の主調には、人格主義的な立場が水際立っている。活発な文筆活動によっても広く知られ、『三太郎の日記』(大正3年)に続き、「感情移入の美学」で著名であったドイツの美学者テオドル・リップスの『倫理学の根本問題』の縮約(大正5年)や、その感情移入論にもとづく『美学』(大正6年)も刊行している。とくに『美学』は、思想界にも影響をあたえた最初の美学書であった。

著作活動は旺盛で、東北帝国大学着任後も『芸術の社会的地位』(大正14年)、『徳川時代の芸術と社会』(昭和6年)、『世界文化と日本文化』(同9年)をはじめ数々の著作を公にしていった。

 

児島喜久雄(1887-1950)

東大・大正2年卒。1923(大正12)年2月1日付で、本学西洋美術史の助教授となる(ただし、1921(大正10)年から1926(大正15)年夏までヨーロッパに留学)。ヨーロッパ留学中、ボーデ、ヴェルフリン、ヴェントゥーリ、パノフスキーなどの錚々たる美術史家に接し、主として古代とルネサンス美術を研究した。ことにレオナルド・ダ・ヴィンチ研究は世界的水準にあると注目された。1937(昭和12)年春、東京帝国大学の専任助教授となり仙台を去った。西洋美術史を中心とした洋書1,494冊からなる彼の蔵書は、児島文庫として東北大学図書館に所蔵されている。

 

村田潔(1909-1973)

東北大・1932(昭和7)年卒。児島喜久雄が1937(昭和12)年に仙台を去ると、その後任としてヨーロッパより帰国し、4月より母校東北帝国大学の講師として西洋美術史の講義を担当することになった。1939(昭和14)年7月、助教授に昇任、1947(昭和22)年6月、教授となる。

村田は1950(昭和25)年、『印象派美術論』三巻で文学博士の学位を授与された。その論文は、この形ではこんにち刊行されていないが、部分的に要約され、あるいは加筆され、いくつかの論文として公にされた。

学位論文の副論文として出された『ギリシアの神殿』(昭和19年)が、主論文以上に注目を集めた。ギリシア美術史研究にかんする限り、二次資料にもとづく啓蒙的論著のみが流布していた当時の学界にあって、最初の本格的な学術的労作であった。

村田の学風はじかに作品を見て、その形態の特徴を明らかにするという、いわゆる様式論を基本にすえたものであった。その成果は『マネ・ドガ』(昭和42年)や退官を迎えて公刊された『西洋古代美術論』(昭和46年)に結実していった。とくにギリシア研究においては、当時、東京教育大学の澤柳大五郎教授(のちに早稲田大学)とともに日本におけるギリシア研究の双璧であった。村田は、きわめて温厚で懐が深く、ユーモアのセンスもあり英国流のジェントルマンの風貌があったという。そのものに拘泥しない淡々とした人柄は、多くの学生を魅了した。

芸術に対する村田の愛情を身近で見ていた当時助教授であった西田秀穂は、そのありさまを、こう的確に表現している。「それぞれの画家および作品への傾倒と共感、それが文体にも感じとられるし、ときには若々しい情熱で生の姿で現われているのである。……スライドによる作品の解説に移ってその作品分析、また成立事情、他の作家の作品あるいは同じ画家の他の作品との比較が語られるとき、広い学識が、まるで堰を切って溢れる奔流のように、一点の作品に集中され、作品=体験の深さ、先生の作品観点の眼の確かさが感じられるのであった」。村田の人格にふれたことのないものにも、時空間をはるかにさかのぼり、まるでその場に再会しているかのような臨場感を伝えてくれる。さらにつづけて、村田の印象深い言葉を書き留めている。「東北大学で勉強しようと決心したのは、児島先生にご指導を仰ぎたいと思ったことは、美術史を学ぼうとする者には当然なことだったけれど、何よりも、「体験」ということを大切にされた阿部次郎先生がおられたものだからね」(『文化』第36巻1.2)。ここには村田の学風に対する深い敬愛の念が感じられるとともに、阿部次郎、児島喜久雄といった先蹤のよき伝統のなかにあった美学研究室の一情景を彷彿させるものがある。

 

西田秀穂(1922-2019)

東北大・1946(昭和21)年卒。阿部次郎の後任として1950(昭和25)年3月、美学の講師となり、1954(昭和29)年、助教授、1972(同47)年4月、教授となる。阿部・村田両教授に学び、「カント判断力批判の研究」(『哲学研究』)、「ラオコン論争」(『文学部研究年報』)などの研究論文は古典美学の研究者として独自の立場を示した。その後、西田は、いくつかの美学論攷を執筆し、「美術史」の方向に研究の舵を切った。阿部次郎の人格主義あるいは「体験」主義とも言える美学に心酔して、仙台にきたという西田は、映画や現代芸術に強い関心をいだいていた。してみれば、具体性を捨象し、一般性を追求する美学は、みずからの研究を支える基礎理論として欠くべからざるものであっても、その理論に閉じこもることは潔しとしなかった。カンディンスキー研究に向かった所以である。抽象絵画のマニフェストとも言えるカンディンスキーの著作『抽象芸術論――芸術における精神的なもの』(昭和33年)、『点・面・線―抽象芸術の基礎』(同34年)、『芸術と芸術家』(同37年)を矢継ぎ早に翻訳し、現代芸術理解に大きな貢献を果たす。

1963年から65年までドイツに留学、西洋美術にじかにふれ具体的な作品論が展開し、その精華ともいえる「年刊誌《青騎士》の表紙絵―非対称絵画成立期における宗教的感情の役割―」が、フランスの雑誌『二〇世紀』(1967年)に掲載されカンディンスキー研究者として国際的に注目されるようになる。西田の現代美術研究は、カンディンスキーにとどまるものではなく、『クレー』(同48年)に見られるように、クレー研究にも大きな成果をあげている。

学内行政にも尽力し、1981(昭和56)年より2年間、東北大学文学部長の重責を果たし、1986(昭和61)年3月をもって定年退官した。文学博士。東北大学名誉教授。

 

田中英道(1942- )

東大・1966(昭和41)年卒。村田潔の後任として1973(昭和48)年国立西洋美術館より講師として着任する。1976(昭和51)年助教授に昇任、1991(平成3)年教授となる。「西洋とは何か」という明治以来の知識人の問いを実践することなくして、新しい思想も美学もあり得ないとする田中は、学部で仏文に属し、アンドレ・マルローに傾倒した。卒業後、美術史に転身し、吉川逸治教授のもとで17世紀フランスの巨匠ラ・トゥール研究をはじめる。1966(昭和41)年から1969(昭和44)年までストラスブールに留学し、ラ・トゥール研究で学位を取得する。国際的にも注目された学位論文は現在でもラ・トゥール研究の基本文献として広く知られており、邦文でも『ラ・トゥール―夜の世界の作品世界―』(昭和47年)として公刊されている。

その後田中は、1969(昭和44)年から1年間のイタリア滞在を経て、イタリア美術研究に乗り出し、ダ・ヴィンチ研究、ミケランジェロ研究など広くルネサンス研究に着手し、つぎつぎと新説を発表する。その成果は、著作のかたちで公刊されている。主たるものとしては、『レオナルド・ダ・ヴィンチ―芸術と生涯』(昭和53年)、『若き日のミケランジェロ』(昭和56年)、『ルネサンス像の転換』(昭和56年)、『ミケランジェロの世界像』(学位論文、平成11年)に結実している。田中の研究方法は、自身確立した「フォルモロジー」『フォルモロジー研究』(昭和58年)にある。それは形態の比較分析を基本にすえ、芸術家の造形が成り立つ必然性を問うものである。しかしその視線は文明論にまで達するスケールの大きな射程をもっている。その根底には常に異質なものでありながらもおのれの存在から腑分けすることのできないほど一体化した西洋文化に対する問い返しがある。近年は『日本美術全史』(平成7年)をはじめ数々の日本美術関係の著作も公にしている。Artibus historiaeGazette des beaux-arts誌などさまざまな西洋の雑誌にその学説は掲載されている。

2005(平成17)年3月、定年により退職された。文学博士。現在、東北大学名誉教授。

田中英道ホームページ http://hidemichitanaka.net

 

松尾大(1949- )

東大・1927(昭和47)年卒。西田秀穂の後任として、1992(平成4)年に成城大学助教授から助教授として着任した。1997(平成9)年教授に昇任する。東大の今道友信教授の薫陶を受け、オーソドックスな美学研究に従事する。その代表的な研究はバウムガルテン『美学』(平成9年)の翻訳・研究に見られる。美学が成立する根拠を多角的に問い直している。1999(平成11)年、東京芸術大学教授に転出した。

 

尾崎彰宏(1955- )

東北大・1979(昭和54)年卒。弘前大学教授を歴任後、松尾大の後任として1998(平成10)年に東北大学文学研究科教授に着任する。
美術史研究室において西田・田中両教授の薫陶を受ける。レンブラントの物質的とも言えるほど厚みのある影の表現に対し、それを生み出した文化的・社会的源泉への問いは大学院およびオランダ、アムステルダム大学への留学を経て、後の大きな視座へと繋がっていく。
美術史研究において特筆すべきは、作品の視覚的特質やそれらを生んだ社会的、歴史的コンテクストへ向けられた視点、そうしたコンテクストが多様な歴史的・文化的要素へと開かれた構造の中に位置づけられている点である。こうした眼差しのもと、レンブラント・ファン・レインやヨハネス・フェルメールのような17世紀オランダ画家を、画家による工房経営システムとの不可分性、画家自身が収集し憧憬していた美術コレクションとの「競合」(competition)の意識、日本を中心とするアジアの視覚的世界との出会いという3つの焦点とともに独創的に再定義及び再解釈している。
こうした視点から生まれた成果は多くの著作に明らかであり、その独創的な眼差しの出発点であるレンブラントについて、その工房における「競合」の推奨と実践について書かれた『レンブラント工房』(1995年)や、コレクションと美術創造の関係を述べる『レンブラントのコレクション』(2004年)として公刊されている。またオランダの絵画的伝統における革新及び魅力的な創造性の再発見の過程で生まれた著作として『レンブラント、フェルメールの時代の女性たち』(2008年)、『ゴッホが挑んだ「魂の描き方」ーレンブラントを超えて』がある。数ある著作において、特にカレル・ファン・マンデル『北方画家列伝』(初版1604年)の全訳版の監訳は、北方絵画に関する最も重要な一次文献の的確な訳文と詳細な註釈により日本における西洋美術史研究を拡充する偉大な功績である。近年はオランダ美術と東洋の視覚文化の出会いと融合について具体的な実例をもとに再構成し、「レンブラントと〈アジア〉ーグローバル・アートへのまなざし」(2018年)を中心とするいくつかの論考を執筆している。
2021年には『静物画のスペクタクル:オランダ美術にみる鑑賞者・物質性・脱領域』(三元社)を出版。
2021(令和3)年3月、定年により退職され、現在は東北大学総長特命教授。

 

芳賀京子(1968-    )

東大・1991(平成3)年卒。田中英道の後任として2006(平成18)年8月、国立西洋美術館リサーチ・ フェローから准教授として着任した。2017年(平成29年)に教授に昇任する。初めて訪れた古代ギリシアの遺跡に魅了され、古代美術の道を選ぶ。東大では、青柳正規教授、高階秀爾教授の薫陶を受け、イタリア(ローマ第二大学)、ギリシア(在アテネ、イタリア国立考古学研究所)、ドイツ(ミュンヘン大学)に学んだ。2002(平成14)年取得した 学位論文にもとづき、『ロドス島の古代彫刻』(2006)を上梓した。2018年(平成30年)に東京大学准教授へ転出した。

 

足達薫(1969- )

東北大・1992(平成4年)卒。芳賀京子の後任として令和元年、弘前大学教授から教授として着任した。東北大では田中秀道教授の薫陶を受けたのち、イタリア、ローマ第1大学ラ・サピエンツァに学んだ(イタリア政府外務省給費留学生)。マニエリスムを中心としたイタリア美術研究を専門とする。文学博士。

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