美の回廊――西洋美術史を学ぶこと――
尾崎 彰宏


希望なき者のためにこそ、我々に希望は与えられている。
――W・ベンヤミン


Ⅰ すべては驚きから始まる


 「驚異の情(こころ)こそ知恵を愛し求める者の情なのだ」(プラトン『テアイテトス』)と言ったのはソクラテスです。哲学の原点とされる言葉として有名ですが、ひたむきに何かを求めるとき、この驚異の情がなくてはなりません。

 あれは忘れもしません、1978年11月のことです。彫刻家の高田博厚氏が東北大学の大学祭で講演されたことがありました。高田さんは、小説家ロマン・ロランや哲学者のアランなどとも親交があり、『分水嶺』『フランスから』(ともに岩波現代文庫)など幾多の著作でも知られていました。学生有志の希望で来ていただくことになり、当時教養部の学生であったわたしがその連絡係をつとめました。その縁で何度か鎌倉の稲村ケ崎のアトリエを訪ねました。アトリエは高台にあり、書斎からは遠く鎌倉の海が望めます。壁一面に在仏30年の間に集めたフランスの書籍や数々の美術品が置かれていました。ピカソやルオーをはじめさまざまな芸術家についてうかがううち、わたしは美術は美しいだけではなく、人の生を変えるような切実なものがその奥に潜んでいることに気づき始めました。高田さんはよくこんなことを言われました。

 「パリに行ったら、聖王ルイが13世紀に建造したシテ島にあるサント=シャペルを訪れなさい。ゴシックの教会堂の窓を飾るステンドグラスが絶品です。それからカルチェラタンの一角にあるクリューニー美術館の《一角獣と貴婦人》のタペストリー、そしてオランジユリー美術館のモネの《睡蓮》を忘れずに見てきなさい。あれはフランスの宝石だよ」。

 翌年の早春、高田さんのこの言葉の意味を無性に確かめたくなり旅に出ました。

 パリに着いたわたしは、あの三つの場所に早速足を運びました。時代も作者もまちまちの作品の前に立ち言葉がありませんでした。何か茫洋としたものが眼前に果てしなく拡がっているような気持ちでした。目眩に襲われました。これは美への憧れだろうか、おのれの矮小さゆえのおののきだろうか? わかりませんでした。そのあとリヨン駅からスイスのレマン湖の畔を通ってミラノに向かいました。明るい日差しの射すイタリアは居心地のいいものでした。フィレンツェ、アッシジ、ローマと南下し、ナポリから古代のエンペドクレスが飛び込んだというエトナ火山の麓のタオルミナを経て、シチリアのパレルモ、アグリジェントまで足をのばしました。古代ギリシア・ローマの遺跡、ロマネスクやゴシックの教会堂、ルネサンスの絢爛たる絵画群にふれ、頭の中が数々のイメージで一杯になりました。知識らしい知識もありませんでしたから、ほとんど一瞥を投げたというに等しかったのです。

 しかし、いくつもの教会堂や美術館でおびただしい数の壁画、絵画、彫刻を目にするにつれて、逆に心はだんだん暗くなっていきました。パリで目にしたあの作品の前で心を揺さぶられたときとは、少し違った印象をいだいていました。教会堂にはなぜあれほど悲劇的で目を覆うような残忍な場面に満ち満ちているのだろうか、という疑念があったのです。「キリストの磔刑」や諸聖人のむごたらしい殉教のありさまは酸鼻をきわめていました。

 なるほど教会堂に磔刑の絵が掛けられているのは、キリストが人類の罪を一身に背負い殉教したからであり、それは悪魔を偽るための手段でもありました。そのことはキリスト教徒ならずとも、多少でも美術史をかじったものには常識です。しかし数多の殉教者の絵が描かれた壁画や祭壇画は、絵として虚心に眺められたとき、強い衝撃を与えます。釈迦の穏やかな涅槃の光景とは対極的です。西洋美術を生みだしたこの文化は、見るものを天上世界へ誘うような絢爛さだけではないのです。人を奈落に突き落とす、とてつもなく恐ろしいものをも含んでいるのではないでしょうか。

 幕末、日本は西欧諸国の圧倒的なカの前に開国を余儀なくされ、怒涛のごとく西洋文化が入ってきました。爾来(じらい)、百数十年が経過し、西洋文化は好むと好まざるとにかかわらずわたしたちの生活ばかりでなく、ものの見方、考え方にいたるまでに深く浸透しています。かりに自分の体の中から西洋文化だけをとりだそうとすれば、それはあのシェイクスピアの『ベニスの商人』よろしく、体から血を一滴も流さないで肉を切り取るということに等しいのです。このように西洋文化は、わたしたちの中に渾然一体となっているにもかかわらず、美術作品を前にすると先にふれた違和感を覚えずにはいられません。東西の文化の根底になお横たわる差異を示しているのです。この差異の中味を理解していくこと、つまり自分たちの文化でもある西洋文化を知ることが、ひいては自分自身を知ることになるのです。言い換えますと、西洋美術を鏡として見たとき、自分とは何かということがはっきり見えてくるのです。自分たちの文化でもある西洋文化を知るには、美術作品から始めるのがもっとも近道です。文字は読まなければ、中味をつかまえることはできません。しかし美術作品のようなイメージなら、見るということによってその世界に入っていくことができます。ファン・エイクやセザンヌの全作品を知るには、画集をめくってみると短時間でおおよそのところは見当がつきます。もちろん文字を読むのに読み方があるように、イメージもその見方を学ばなければなりません。しかし、テレビや映画はもとより、日々イメージの世界にどっぷりつかっているみなさんには、言葉とイメージを二つながらつかっていくことの方が容易であり、得意なはずです。

Ⅱ 見ることは考えること


 紺碧の空と海に大理石の白が映えるギリシア。この国で栄えた古代ギリシア美術の中心に据えられたのが人間像でした。この独自の芸術観を表明したものに、紀元前6世紀の少女像(コレー)や青年像(クーロス)があります。その表情はアルカイック・スマイルと言われる、ほのかな笑みを浮かべています。まるで人類の青年期の始まりを告げるかのような印象が与えられます。サラミス湾の海戦で専制国家ペルシアに勝利し、アテナイはギリシアの盟主となり全盛を極めました。しかしさすがのアテナイもスパルタとの戦役に敗北し、やがて紀元前4世紀になるとギリシアはアレクサンドロス大王の支配を受けます。ギリシアが二度と歴史の表舞台に登場することはなくなります。しかし、ギリシア文化は古代ローマに浸透しヨーロッパ世界に拡がっていきます。こうした古代世界を一変させたのが、キリスト教でした。

 4世紀のはじめ古代ローマ帝国で公認されたキリスト教は、巧みな政治力によって勢力を伸ばし、その世紀の末には国教となります。それまでのギリシア・ローマの神々を追放し、神殿にかわって教会を建築するようになります。ギリシアで発達した人体像の理想を追求する芸術は忌避され、ひたすら観念的な形象が描かれていきます。6世紀イタリアのラヴェンナにある聖アポリナーレ・イン・クラッセ聖堂内部のモザイクや数々の写本装飾にそれがはっきりあらわれています。こうした芸術を貫いているのは神に対する敬虔さでした。しかしそれは裏返すと人びとに対する教会の側からの抑圧でもあり、キリスト教の悔悛・告解によって儀式化されたものなのです(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ』新潮社)。キリスト教世界の厳格さは、古代の奔放な快活さと笑いを庄倒的な力でねじ伏せました。もちろん、長い中世を通して古代の遺産が失われてしまったわけではありません。教会堂の片隅で流謫の神々はさまざまな形に姿を変えながら生き続けました(セズネック『神々は死なず』美術出版社)。古代末期から何百年も続く古代とキリスト教の熾烈な相克が十三世紀の初期ルネサンスに大きなうねりとなつてあらわれます。古典学者であり文学者でもあったペトラルカやダンテと並んで、画家ではジョットが新しい世界を切り開いていきます。

Ⅲ 個人の発見


 「人間が精神的な個人となり、自己を個人として認識する」と書いたのは、近代ルネサンス学の祖ブルクハルトです。『イタリア・ルネサンスの文化』(央公論新社)のなかで、イタリアにおいてはじめて中世と近代をわかつ個人意識の誕生を謳いあげたことはよく知られています。こんにちでは中世とルネサンスを個人の誕生という視点からこれほどはっきり分けようとする人は少ないようです。しかし、13世紀のジヨット以降、イタリアに開花した芸術の中にさまざまな形で個人が刻印されていることは確かです。

 たとえば、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂にあるマザツチョの《聖三位一体》を見てみましょう。

 このフレスコ画は十字架に掛けられたキリストを父なる神が背後から支えています。その背後にはブルネレスキの古典的な建築と一点消失遠近法が完璧に用いられた建築空間が拡がっています。十字架の両側には聖母マリアと聖ヨハネがいます。その外側に脆く男女はフレスコ画の寄進者です。フレスコ画の下部には墓に横たわる骸骨が描かれています。そこには、「かつては自分も汝らのように生あるものであった。わたしはやがて汝らがなるところのものだ」という内容の銘文が刻まれています。このフレスコ画は寄進者の魂の救済を祈願して描かれたものです。彼らの魂は聖母と聖ヨハネの仲介を経て、キリストにいたり、さらに聖霊の鳩を介して神に抱かれます。都市と貨幣経済の発展に支えられた近代的な精神を持ちはじめていたルネサンスの市民たちの最大の関心事が何であったかをこのフレスコ画は、はしなくも明らかにしてくれます。個人の魂の救済ということです。

 14世紀初め、ジョットがパドヴァの高利貸しとして悪名の高かったエンリコ・スクロヴエーニの委嘱で制作したアレーナ礼拝堂もやはり、寄進者が自分の魂の救済ということに、いかに捉えられていたかを示す好個の作例です。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の孔(あな)を通り抜ける方がまだやさしい」。この聖書の言葉が彼らに重くのしかかっていました。教会に寄進することでひたすら救済を願ったのです。

 王侯、貴族、富裕な市民は魂の救済を希求し、教会はそれを媒介するという点で利害が一致していました。芸術家はそれを視覚的に表現する役割を担ったのです。教会の栄光と世俗の救済、そして権力の視覚化に寄与する形で芸術家は、徐々に社会的な地位を高めていきました。その頂点に立つのがレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、ティツィアーノといった巨匠たちです。ミケランジェロの《システイーナ礼拝堂の壁画》(ヴァチカン)を目にすると、人はいったい何をなしうるのかということをはっきりと見てとることができるはずです。それだけではありません。芸術家によって世界が再創造された――芸術家が、世界を創造した神にも等しい地位を占める――ことも実感されるでしょう。「個人の発明」は、世界が神によって与えられたものではなく、逆に人間によって神が目に見えるかたちで創られたことをあらわしているのです。こうした意識が画家の自画像というかたちをとることになります。

Ⅳ 画家が「神」になる


 そういう意味での自画像でもっとも重要な作品は、ドイツ・ルネサンス最大の巨匠アルブレヒト・デューラーの《1500年の自画像》です。この絵はミュンヘンのアルテ・ピナコテークにあります。ミュンヘンに行ったなら、ぜひ訪れて欲しい美術館です。

 画家はまっすぐ正面を向いています。胸にあてた手は見るものの注意を自分に向けるように促します。この絵には右上に銘文があります。そこには28歳のデューラーがおのれを永遠化するために描いたと記されています。この時代まで正面向きで措かれる人物は神かキリストでした。デューラーはおのれを神かキリストに見立てていることになります。みずからを造物主に見立てることでおのれを神にも見まがう存在にしているわけです。これは傲慢であり強い矜持のあらわれです。イタリア・ルネサンスに起源をもつ、芸術家を神と同一視する見方の頂点ともいえるものです。

 美術史上デューラーの果たした役割は多義的です。その後アルプス以北の芸術家たちにとって最大級の規範となったのはデューラーです。とくにデューラーの版画は後世の画家たちの発想源となりました。デューラーのインパクトの中でもとりわけ印象深いのは、彼が古代ギリシア以来の宇宙観、世界観であった四大元素、四気質を自分の作品に最大限に活用したことです。この世界は水、空気、火、土の四大元素からなりたっており、それに呼応して人間は、粘液質、多血質、胆汁質、憂欝質(メランコリー)という四つのタイプに分類されるというものです。そして四気質のひとつメランコリーに芸術家の天才の気質を認めたことは、よく知られています。その典型的な表現が《メレンコリアⅠ》(1514)という銅版画に結実しています。

 この昂揚した芸術家の自意識は、やがて17世紀オランダの巨匠レンブラントにおいて傑出した芸術を生みだすことになります。レンブラントの《1640年の自画像》(ロンドン、ナショナル・ギャラリー)には、デューラー、ティツィアーノ、ラファエロに対する、熾烈なまでの芸術家の競争があらわされています。現代まで画家は飽くことなく自画像を描きつづけてきました。しかし一時代の中に生きる芸術家がおのれ自身の芸術意識を表現する自画像は、17世紀オランダの画家レンブラントを境に衰退していきます。それは芸術家がその時代の核心を表象しなくなることと関係しています。やがて哲学、文学、科学の時代が幕を開けることになるのです。

Ⅴ 過去の影は未来の約束


 これまで述べてきましたように、芸術鑑賞と美術史には何よりも驚き、共感するこころが大事です。驚き、共感するこころは、対象に対する深い尊敬と愛情をいだくことに由来しています。日本人は古来こうしたこころを大切にしてきました。明治時代に美術界を指導し、西欧に向かって東洋の芸術について語ったことで有名な岡倉天心に『茶の本』(岩汲文庫)があります。その中に印象深いエピソードが紹介されています。

 細川候の邸が警護の侍の不注意から、突然、火事に見舞われました。廷内には雪村の手になる有名な達磨の絵がありました。その侍は万難を排してその貴重な絵を救い出そうと決心し、燃えさかる建物の中へ飛び込んでいきました。そしてくだんの掛け物をつかみ取ったものの、そのときすでに火の周りが早く逃げ道が見つかりませんでした。侍は絵のことしか頭になく、剣で自分の身体を切り開くと、袖を引き裂いて雪柑の絵を包み、ばっくりと開いた傷口の中へそれを突っ込んだのです。火事がやんで、煙る余塵の中に、半焼の死骸が見つかり、そのなかに例の秘蔵品が焼け損なわれずにおさまっていたといいます。

 ぞっとするような話ですが、信任の厚い侍の献身はもちろんのこと、日本人が美術品にいかに大きな価値をおいていたかを知る具体的な手がかりになります。すぐれた芸術作品は今という瞬間にあらわれながら、それを超える普遍的な価値があるということです。美術史を学ぶことはこの普遍的なものをみずからの中に呼びこむことにほかなりません。

 一回限りの人生を生きるわたしたちは深い芸術体験によって、変わらない何ものかにめぐり会うのです。